
韓国ドラマ『二十五、二十一』の魅力を綴っていきます!
この記事の内容
- 『二十五、二十一』の作品紹介
- 『二十五、二十一』の考察
『二十五、二十一』の概要・あらすじ・予告編・登場人物(キャスト)・見どころ
作品概要
タイトル | 二十五、二十一 |
監督 | チョン・ジヒョン |
脚本 | クォン・ドウン |
キャスト | キム・テリ ナム・ジュヒョク ボナ チェ・ヒョヌク イ・ジュミョン 他 |
製作年・国 | 2022年・韓国 |
エピソード | 16エピソード |
配信時間 | 1エピソード:約75分 |
ドラマタイプ | 青春、友情、ラブロマンス、成長 |
おすすめランク | 💠超おすすめ |
あらすじ
アジア通貨危機が韓国を襲った1990年代後半〜の韓国が舞台の物語。
高校のフェンシング部に所属するナ・ヒドは、同い年の金メダリスト、コ・ユリムに憧れる女子高生。
ある日、通貨危機の影響でフェンシング部の廃部が決定。フェンシングを諦めきれないヒドは、ユリムの通うテヤン高校でフェンシングを続けることを決意する。
一方、父の会社の倒産で家族離散生活を送るペク・イジンは、新聞配達や貸本屋のバイトで食い繋ぐ辛い日々を送っていた。
そんな二人が偶然出会い、お互いを支え合いながら、共に歩んでいく。
登場人物(キャスト)
主な登場人物
ナ・ヒド(キム・テリ)
テヤン高校フェンシング部員。天真爛漫。かつてはフェンシング界の天才少女と呼ばれていた。早くに父を亡くす。TV局アナウンサーの母とよくぶつかる。
ペク・イジン(ナム・ジュヒョク)
貸本屋・新聞配達のアルバイト。テヤン高校卒業生。 通貨危機の影響で父親の会社が倒産し、金持ちのお坊ちゃんから苦労人へ。借金取りから逃れるために家族が離散して暮らしている。
コ・ユリム(ボナ)
テヤン高校フェンシング部員。金メダリスト。国民的人気選手。食堂を営む両親の苦労をよく理解している。リアリストな一面も。
ムン・ジウン(チェ・ヒョヌク)
テヤン高校バンド部員。スンワンの幼馴染。自分の容姿がイケてると信じてる。ユリムが好き。
チ・スンワン(イ・ジュミョン)
テヤン高校放送部員。海賊放送DJ。学年1位の秀才で学級委員長。しっかり者。下宿の家主の娘。
『二十五、二十一』ココが見どころ
見どころポイント
- 31歳のキム・テリが、高校生ナ・ヒドを違和感ゼロで演じる演技力
- ナ・ヒドとコ・ユリムのライバル関係、友情、そして適度なスポコン感
- ナ・ヒドとペク・イジンの恋と成長
- 高校生から大人へ成長していく、魅力溢るる登場人物たち&それぞれの変化
- 1990年代後半から2000年代前半の時代の空気感
とにかく、まず驚くのが、高校生を演じたキム・テリが31歳ということ。
確かにキム・テリは童顔で肌がキレイ。
だとしてもだ。
全く違和感なく高校生を演じきるキム・テリの演技力はすごすぎる。
座り方、走り方など細かい仕草も計算し尽くされていて、キム・テリ演じるナ・ヒドこそが、このドラマ一番の見どころなのは間違いない。
また、フェンシングを通して育まれるヒドとユリムの友情が熱い。
その一方で、熾烈なライバル関係をしっかり描くなど、スポコン要素も適度に盛り込んでいるところが『二十五、二十一』の青春ドラマとしての質を高めている。
そして、この物語の核となるのは、ナ・ヒドとペク・イジンの恋。
真っ直ぐなヒドと、駆け足で大人になるしかなかったイジン。
二人のド直球な恋愛は、時にもどかしく、せつなく、そしてときめく。
ちなみに、10代、20代における「4歳の年齢差」はとーっても大きい。
そういう意味で、高校生たちの前で大人ぶるイジンの努力は微笑ましく、彼を演じたナム・ジュヒョクの好演も見逃せない。
そしてなにより、青春時代という輝かしい時間を精一杯生きる登場人物たちの姿にキュンとする。同時に、自分の「あの頃」を思い出し、思わず感情移入してしまう流れ。
さて、冒頭でナ・ヒドを演じたキム・テリの年齢に触れたが、高校生を演じた他のキャストたちも意外と大人。
たとえば、ヒドのライバル、ユリムを演じたボナは26歳、ヒドのクラスメートでしっかり者のスンワンを演じたイ・ジュミョンは29歳。
この二人も、違和感ゼロで高校生を演じきっている。
制服を着た姿は透明感があって、初々しさすら感じる。
そんなキャスト陣の中で、唯一高校生に近い年齢なのが、自称イケてる男子、ジウンを演じたチェ・ヒョヌク、20歳。
同級生役のお姉様方に囲まれながら、彼はめちゃめちゃイイ味を出していた。
「ただ、そこにいるだけでなんか面白い」という、存在感溢るるジウンにも、是非注目してほしい。

Netflixで配信されています
『二十五、二十一』考察・感想(ネタバレあり)
ネタバレを含みます。『二十五、二十一』を視聴後にご覧ください。
「あの頃」は、二度と戻れないからこそ価値がある
ドラマ『二十五、二十一』は、ひと言でいえば大人のための青春ドラマだ。
時折登場する40代のナ・ヒドの視点と視聴者の視点は同じで、つまりは、かつて青春を生きた人々のための物語だと言える。
物語はヒドの娘で中学生のミンチェが母の高校時代の日記を読むという形で、ヒドの青春を振り返るスタイル。
面白いのは、ヒド自身が過去を振り返りたいと思っているわけではなく、青春の価値をまだ知らない、青春真っ只中の娘によって、ヒドの青春が紐解かれるという点だ。
そして、母ヒドの青春を日記によって擬似体験したミンチェが、一度は辞めることを決意したバレエに再チャレンジするという流れ。
さて、ヒドと彼女をとりまく仲間たちの青春物語は、宝石箱のようにキラキラしたものが詰まっている。
彼らはそれぞれにユニークで、ヒド、ユリムのように、自分の進むべき道を早くから決めている子もいれば、ジウンのようなごく普通の高校生もいる。
また、「人生がおもしろくない」と冷めたことをいうスンワンも存在感を放っている。
そんな彼らの共通点は、なんとか前に進もうと、自分なりに道を模索しているところ。
もしかすると、当の本人たちには「模索している」という意識すらないのかもしれない。
でも、皆、少しづつ満たされない何かを抱えていて、その一方で、仲間達の存在に支えられている。
ちなみに、彼らへの共感という意味では、国家代表に選ばれる特別な高校生(ヒドやユリム)よりも、「人生がおもしろくない」と愚痴るスンワンを身近に感じる。
なぜなら私も、高校生の頃はそんなことを思っていた記憶があるからだ。
だからかもしれないけれど、スンワンがすごく好きだった。
ともあれ、くだらないことで大笑いをし、悩みを打ち明け、助け合い、時に喧嘩もする関係性はとても貴重。
そしてそれが高校時代というごく限られた時間で育まれたことに意味があり、二度と戻ることができないからこその尊さがある。
一方で、それがただの過去に過ぎないことを知っているのが40代になったヒド。
「ヒド日記」のハイライトとも言える「仲間で海へ行った思い出」は、彼女の記憶の片隅にすら残っていなかった。
永遠なんてない。全ては一瞬で終わって消えていくものよ。でもねそれも悪くないわ
母のこの言葉はミンチェにとっては肩透かしかもしれないけれど、40代のヒドにとって、偽らざる心境なのだと思う。
そしてそれは、現在が幸せだからこその言葉でもあるわけで。
さて、ドラマ『二十五、二十一』が最終回を迎えたのは4月の初旬。
桜が満開の時期だった。
その影響か、このドラマは桜を連想させる。
たとえば、桜が人を惹きつけるのはその美しさもさることながら、あっという間に散ってしまうから。
満開の時間があまりに短いことを知っているからこそ、人はその瞬間に価値を見出す。
このドラマで描かれていることは、それと似ていると思うのだ。
青春が素晴らしいと思えるのは青春の只中ではなく、ずっと先のこと。
「あの頃」の輝かしさを懐かしく思い出すのは、それがすでに散ってしまっているからだ。
ただ、人生は青春期の先もずっと続く。
毎年同じ花を咲かせる桜と違って、人は、その年代毎に別の花を咲かせる。
そして過ぎ去った過去を振り返る時に、言葉にできないせつなさを感じる。
それは、同じ花を咲かせることは二度とないと知っているからなのだと思う。
二度と戻れない「あの頃」と同じように。
ヒドとイジン、二人の恋が終わるまで
物語の終盤、特に15話と最終話は、ほろ苦い気持ちで鑑賞した。
それは、キラキラした青春の終わり、つまりはヒドとイジンの恋の終わりが描かれていたから。
恋が始まった頃の彼らは幸せだった。
ヒドにしても、イジンにしても、相手の存在が愛おしくかけがえのないものだったはず。
それと同時に、二人の関係は永遠に続くと信じていた。
ヒドにはイジンを支える自信があっただろうし、イジンにしてもそれは同じ。
それぞれの夢や目標はあったとしても、常に寄り添いずっとお互いがそばにいると思っていた。
でも、別れの時はやってきた。
仕事で時間の自由がきかないイジンに待たされるヒドと、寂しい思いをさせていることが心苦しいイジン。
はじめは小さなすれ違いだった。
お互いを思いやる気持ちや、短くとも一緒に過ごす時間で、二人の隙間を埋めることができた。
でも、すれ違う回数が増えるにつれ、それは埋めようのない溝へと変わっていく。
ちなみに、ヒドの寂しさやモヤモヤ感はすごく理解できる。
なぜなら、「待つ」という受け身の行為は、行動することの何倍も努力と忍耐を必要とするから。一歩も前に進めないことほど、フラストレーションが溜まることはない。
一方のイジンはどうか。
報道記者としての葛藤を抱え、苦しみもがいている。
彼だって辛いのだ。
それでも、イジンは行動をしている。
たとえ心理的負担が大きいとしても、少しづつ前進している。
そしてそれは、一歩も前に進むことなくイジンを待つヒドによって支えられている。
この関係、あまりフェアじゃない。
ヒドは「待つ」辛さや、自分の言葉が相手に届かない絶望を常に抱えていた。
それは、イジンにとっての自分の存在価値を疑うのに十分で、やがて別れの決意へと繋がっていく。
一方のイジンは、「なぜ俺の苦しさをわかってくれない?」と憤る。
そして「そばにいることを信じて疑わなかった存在を失う」という現実に打ちのめされる。
これって、どちらかが悪いという話ではない。
時の流れが人や環境を変えていくことには抗えないし、特に、10代・20代は、未来への持ち時間が長い分だけ変化が大きい。
そしてその変化は特に、身近な関係性に影響を及ぼすもの。
ちなみに、ヒドの変化は劇的なものではない。
国家代表として活躍しながらも、イジンと出会った頃と大きく生活パターンが変わったわけではなかったから。
しかし、イジンは違った。
新しい部署(報道局)での仕事は、彼にさえ先が見えなかったはず。
そしてニューヨークでの辛い経験がきっかけとなり、物理的にヒドと離れることに。
つまり、変化が大きかったのはイジンの方。
いずれにしても、イジンの変化の大きさは、二人の溝を取り返しのつかないところまで深めてしまった。
だから、別れるしかなかった。
しかし、別れを口にしたからと言って、そう簡単に気持ちの整理がつくわけもない。
私たちは いい時だけ”愛”で つらい時はお荷物よ
お前の応援じゃ支えにならないほど キツかったんだ
待って失望して諦めるのは これまでずっとしてきた
そんな風に生きていくのはイヤなの
俺を理解する気は ない?
売り言葉に買い言葉。
二人は感情をぶつけ合う。
それでも「こんな別れ方をしてはいけない」と、最後の最後に泣きながら抱擁し合うヒドとイジン。
そんな二人の姿は、涙なしでは観られなかった。
そしてこれは彼らの青春が終りを告げたことを示す、せつない場面でもあった。
ところで、最後まで気になったのは、「ヒドの夫」と「イジンの今」。
そのあたりの詳細は明かされぬまま終わってしまったけど、それはそれでいいのかもしれない。
大切なことは、それぞれが自分らしい人生を生きることであり、それによってようやく、別れ、悲しみ、後悔といった「過去に置いてきた想い」を昇華することができると思うから。
そしてきっと、今のヒドもイジンも自分らしい人生を生きているにちがいない。
大人のための青春ドラマ『二十五二十一』のド直球が心に刺さる(note記事)
noteに「大人のための青春ドラマ『二十五二十一』のド直球が心に刺さる」を書いています。
(Ep 10まで視聴時点で書いた記事です。最終回に向けての予想(妄想)はハズレてたけど…汗)

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