最近、韓国ドラマばかりみている。
理由は単純。面白いからだ。
でも、この中毒的な見心地のよさはそれだけが理由ではないような気がしている。
では、その正体は何か。
それは「字幕」の存在だ。
そういう文脈では韓国コンテンツというよりも、日本語以外の言語で制作されているもの全てのコンテンツに当てはまるけど。
ともあれ、「字幕」というのはある種特別な効果をもたらしているような気がするのだ。
当たり前だが字幕ではセリフの全てを網羅することはできない。
限られた時間に目で追える文字数には制限があるわけで。
結果、字幕に表示されるのは、言わんとすることやニュアンスの表現の凝縮型だ。
言い換えれば、一旦、翻訳者によって整理された上で慎重に吟味されている言葉なのだ。
もちろん、翻訳者の方々はオリジナルのセリフに忠実に、そして簡潔に言葉を選んでいると思う。
でもその行為は、すごく控えめだけど、とてつもなく重要な演出なのではないかと思うのだ。
短い時間に目で追える字数に圧縮されたセリフは、短い言葉であるがゆえにメッセージが明確になりやすい。
ストレートに心に入る、つまりは心に刺さるのだ。
また、耳から入れる言葉と読むことで理解する言葉では、同じ言葉でも重みが違うことが少なからずある。
そしてそれこそが、字幕で見るドラマや映画の見心地の良さや面白さにつながっているのではないかしら。
耳慣れない言語の音や抑揚を楽しみながら、刺さる言葉を文字で追う作業は何とも特別感があり、作品を楽しむスパイスになっているように感じる。
また、言葉は「言い過ぎないこと」「全てを語らないこと」によって心の奥深いところに届くことがある。
凝縮された、そして選ばれた言葉の群たちは、装飾をそいだ分だけ研ぎ澄まされているわけで。
そしてもうひとつ。
字幕の存在はある種の「特別感」を醸し出していると思っている。
あるいは「よそ行き感」とも言えるかも。
と言うのも、字幕での鑑賞は少しばかりの緊張感を伴うように思うのだ。
これも言語が関係してくると思っていて、耳で理解できればたとえ画面に集中しなくても内容は追える。
つまりは気軽に鑑賞できる。
でも、字幕(=外国語)となればそうも行かない。
内容を理解するために映像に張り付くことになり、より集中して鑑賞することを余儀なくされる。
これが「特別感」や「よそ行き感」に通じているのではないかと。
いずれにしても字幕という演出の効果が、韓国ドラマをはじめとする海外ドラマに惹かれる一つの理由かも。。と思うのであった。